ヘーゲル傳

雲とジェット機 

図・書庫 0150265577

ヘーゲル傳

クーノー・フィッシャー

甘粕石介訳

三笠書房刊

信大文理学部分館 昭和35年3月5日 L50858 蔵書

訳者はしがき

本書はクーノー・フィッシャーKuno Fischer(1824─1907)Geschichte der neueren Philosophieヘーゲルの巻における「伝記、著作」の部分の訳である。この巻における「学説」の部分の一部は「ヘーゲル哲学解説」としてさきに坂上絢一郎氏の訳がある。へーゲル哲学の社会的な発生、発展の過程を説明したものとしては、現在までの最良の書の一つに数へらるべきものであろう。クーノー・フィッシャーはドイツの哲学が新カント派などとして極端な観念論となる以前の哲学者であるが、政治的、道徳的にも自由主義の立場にあって、封建的イデオロギーに対しても相当の闘争力を持っており、哲学的立場においても、彼が哲学者よりもむしろ哲学史家であったということもあろうが、多分に現実的、客観的な傾向を有し、全体として健康な感じをわれわれに与えている。


ヘーゲル哲学の発展史を見るにしても、それを非常によく当時のドイッの政治の動きと連関せしめて見ている。所々くわしすぎる位、この時代──フランス革命の時代──の政治的事情が述べられている。そしてこれは大体において封建的勢力とそれを打破しようとする新興勢力との闘争という事実を基本的な線として理解しようと努めているようである。1815年反動期の到来までのヘーゲルは、フィヒテ、シェリング、ニータンマーと共に、新興勢力──この規定は明確にはなっていないが──の代表者として捉えられ、恐らくフィッシャー自身もプロテスタントであるためか、特に封建的勢力のイデオロギーとしてのカトリックに対するヘーゲルの闘争がよく描かれている。1815年以後ヘーゲルが保守化し、その俗人的性格を露はにしはじめる過程、社会的な根拠もよく描かれているように思われる。

しかし一方クーノー・フィッシャーの持っていた限界も、この書のうちに明かにマイナスとして現れている。やはり無方法ということがその根本的な欠陥であったろう。勿論彼がリッケルト流の「厳密な」方法論を以て歴史を書かなかったということは、われわれにとって大変な幸ひだったが、だからと言って無方針の実証主義に止っていることは許され得ることでない。彼は例へばヘーゲルの政治的背景を描くにしても、何が大切で何がそうでないか、という


ことがはっきりとされていないため、時にはフィッシャーの単に個人的な興味から、読者の興味を惹きそうだと思われることを、不必要にくわしく述べている。ヨハネス・シュルツェについての詳細な叙述などはそうで、これはヘーゲル哲学とは何ら必然的連関を持つものでない。哲学史の真の方法は、哲学を時代の鏡と見ること以外にはないと思う。その点から言って、ヘーゲル哲学の核心としての精神現象学、諭理学に現れた恐るべき弁証法は、果たして何処から来たか、時代の何を反映したものか、哲学史家の最も重要な題目であるが、このことがフィッシャーにおいてはほとんど説明されていない。ヘーゲル哲学の本質としての弁証法の源泉はフランス革命以外のものでないのであるが、フランス革命のヘーゲルへの影響をほとんど認めていないフィッシャーが、このことを明かにし得なかったのは当然であろう。(この点については拙著「ヘーゲル哲学への道」を参照ありたい)。なおまた哲学の背景としての政治の意義を十分に認めながらも、それを経済的基礎まで追求しなかったという不十分さ(このために前述の如き反封建的勢力なるものの曖昧な規定が生じている)もあるが、全体として見るときわが国におけるヘーゲル哲学の入門者には教えるところがなかなか多いだろうことを信ずる。こういう方面からヘーゲル哲学に入門することも一つの方法である。


なお原書にある註は、煩雑さを恐れて適度に取捨した。本文でも12ケ所省略した個所があるが、これによって意味の曖昧になるという個所ではない。

1935年8月

甘粕石介


2017年10月16日(月)午前10時30分12秒
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[ 2017/10/16 10:31 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

日本人の曖昧さ

一瞬の夕焼け 
木曽は今日も雨

霧雨(きりさめ)が、衆議院選挙の混乱を鎮めるように、しとしと(雨が静かに小止みなく降るさま)と、降っている。

私は、衆議院選挙という用語を使ったが、それは、総選挙という用語が、参議院選挙を伴わないのに、総選挙と衆議院選挙とを同じ政治行為として位置付けている法律に「腹が立つ」からである。

広辞苑も、総選挙を、衆議院議員の任期満了・解散によって定数全員について行われる選挙、と、定義しており、任期満了によってであろうが解散によってであろうが、衆議院選挙なのであるから、混乱を避ける目的で、参議院選挙を通常選挙と呼ぶ習わしと共に、混乱を避ける目的で、両者共々、衆議院選挙・参議院選挙という呼称用語に統一するのが合理的科学的である。

日本人は、曖昧(あいまい)な民族であるが、それは、科学者である私には、当てはまらない。

形式論理学が確立した矛盾律は、絶対的原則であるが、マルクスは、ヘーゲル弁証法を引き継ぎ、この矛盾律概念の拡張による「現実の矛盾」概念で、導きの糸を導出した。

見田石介の結論によれば、現実の事物は、全て内部に矛盾を含んでおり、矛盾は、許されないから、別の事物に変化発展する。

形式論理学が確立した矛盾律の上に適用範囲が拡張された現実の矛盾概念は、資本論では、交換過程における現実の矛盾として、矛盾律を犯して、提示されている。

見田石介は、マルクスのこの部分の叙述を、鵜呑みにしているが、これは、見田石介の誤り限界であり、マルクスを正しく理解するため、乗り越えたいと私は、傲慢にも希求している。

いま、私は、論理学上の最先端問題に言及したが、自然科学では、物理学であれ数学であれ、はたまた、プログラミングであれ、曖昧さは許されない。

私は、日常的に、プログラミングを行っている。

ひとつは、MmEditorのマクロ作りであり、もう一つは、TeXのマクロ作りである。

MmEditorはC言語で記述されており、マクロもC言語の文法で記述しなければならない。

TeXの世界も奥深く、MmEditorの作者・宮崎さんの努力によって、私は、MmEditorに取り込んだ文字列にTeXコマンドを、MmEditorのマクロを使って、容易に挿入し、研究に役立てている。

研究成果は順次ブログに掲載しているが、その際には、TeXコマンドを削除する必要があり、その作業も、自分でMmEditorのマクロを作って行っている。

MmEditorのマクロにせよTeXコマンドにせよ、C言語によるプログラミングにせよ、コマンドを一文字間違えたり忘れたりすれば、プログラムは動かず、PCがフリーズする事も多々ある。

つまり、卑近な例に限定してみても、日本人の曖昧さは、許されないのである。

私は、幸か不幸か、国立奈良工業高等専門学校に3年間在籍し、数学を中心とする自然科学の世界を体験した事もあり、専攻は論理学ではあるものの、自然科学の成果には明るく、むしろ、自然科学の領域に生きている人々が日本語で公表した研究成果を、翻訳する事さえ出来る。

数学の世界といいTeXコマンドの世界といいC言語の世界といい、実に奥深く透徹した論理的思考力が求められるのであり、日本人の曖昧さを払拭する必要があるとするなら、これら自然科学の成果を学ぶべきだろう。

2017年10月15日(日)午前8時45分・文責・藤井深

最終更新:2017年10月15日(日)午前9時4分・文責・藤井深

最終更新:2017年10月15日(日)午前9時34分・文責・藤井深

最終更新:2017年10月15日(日)午前11時13分・文責・藤井深
[ 2017/10/15 12:35 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

小山進次郎さん・刊行のことば・あとがき

刊行のことば

小山進次郎君が急逝(きゅうせい・急に死去すること)されて、もう一周忌を迎えることになった。

小山君は、昭和13年東大法学部を終えると・直ちに厚生省に入られ、途中暫く山ロ、千葉及び滋賀の各県に勤務されたほかは、昭和40年6月退官されるまで、20年余りの間、厚生省一筋に、その要職を歴任され、その間、生活保護法の全面改正、国民年金法の制定をはじめ、ほとんどすべての厚生行政の重要問題を手がけて来られた。また退官後は、直ちに社会福祉事業振興会の常務理事に迎えられ、さらに厚生年金基金連合会の発足とともにその理事長に推されたのであるが、同君の優秀な学識と豊富な経験とは、待ってましたとばかりで、同君に休養の暇も与えず、いろいろな所に引張り出される羽目になってしまった。すなわち、東大経済学部の講師に迎えられたのをはじめ、社会保障制度審議会、国民年金審議会、経済審議会、近くは日本列島改造懇談会などの各委員など、ずいぶん広い分野の要職に就かれ、どの方面でも水をえた魚のごとく、八面六臂(はちめんろっぴ・一人で数人分の手腕を発揮するたとえ)の活躍をされていた。

小山君の人格と指導力とは、厚生省内に多数の小山学校の生徒を生み、その衆望は全省をおおうの感があった。今社会保障の飛躍的増強が要望され、厚生省が真に国民の熱望に応えねばならぬこの際、小山君に対する期待は非常に大きかった。この時、小山君は突然逝ってしまった。残念至極である。

小山君の遺徳を慕う人々の間から、追悼録刊行の議が起り、厚生省はじめ関係の方々の御協力をえて、ここに「小山進次郎さん」一巻を編んだ次第である。

昭和48年9月

小山進次郎氏追悼録刊行会

発起人幹事代表 葛西嘉資

題字 灘尾弘吉

あとがき

昭和47年9月5日払暁、小山さんは、聖路加国際病院で心不全のため急逝された。

小山さんが初めて心臓病の発作で倒れ、出張先の名古屋で2ヵ月ぐらい入院されたのは、たしか社会局保護課長の時で昭和24年のことだったと思う。爾来心臓病は、小山さんの宿痾となった。

その後大臣官房総務課長から保険局次長、大臣官房審議官、年金局長、保険局長と要職を歴任されたが、この間御健康については特記するほどのこともなくまあまあの状態で推移したように思う。

仕事は人に集るというが、厚生省の重要案件の処理は小山さんの御手腕にまつところ多く、小山さんのいくところ常に多事多忙の毎日であったが、御自身も御健康には細心の留意をされるとともに、令夫人はじめ御家族ぐるみの健康管理に支えられて、よくこの働き盛りの時期を無事に切抜けられたのであろう。

しかし保険局長時代の末期、とりわけいわゆる職権告示問題以後は、過労と心痛の連続のためひどい憔悴ぶりで、昭和40年6月退官と同時に入院生活に入り、ひたすら療養に専念され

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、708頁)

たのだった。

この最大の危機を乗りこえてからは、御療養の効果もあらわれて御健康も日増しに安定し、厚生年金基金連合会理事長に御就任のころにはすっかりもとに戻ったよう見受けられ、関係者一同ほっと安堵の思いであった。

お体の具合についておたずねすると、小山さんは、マイペースでやっているから心配いらないとよくいわれた。自分の体のことは、誰よりも御自身が先刻御承知であり、体の調子に合わせて仕事なり生活なりをしているから心配御無用というのであろう。

主治医の日野原先生の折紙つきの模範的患者だときいていたし、御自身も、また御家族もあげて協力してマイペース主義を守っていかれるのなら本当に心配いらないのではないか、一病息災とはこのことだなと思ったりした。

小山さんは、東京大学経済学部の講師として社会保障概論の講義をされたこともあり、医療保障にも所得保障にも通暁した社会保障問題のすぐれた専門家として厚生省OBのなかでも際立った存在であり、後輩の期待と信望を集めていた。社会保障制度審議会はじめ国民生活審議会、経済審議会などの委員をされ、日本列島改造問題懇談会の委員をも引受け、小山さんならではの御活躍をしておられた。そのさ中、突然の訃報であった。一時停止していたかにみえた病勢が、やはりじわじわと確実に進行していて、マイペース主義をもってしても支えきれないほど悪化していたのであろうか。

小山さんに死なれてみて、何か私たちのまわりにぽっかり大きな穴があいたような、虚しい感

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、709頁)

じがしてならず、あらためてその存在の大きさを思い知らされたのである。小山さんを末永く偲ぶよすがとなる追悼の書冊を作ったらという声が小山さんを知る人々の間に期せずして起ってきた。なかでも、葛西嘉資さんが熱心に提唱された。なんでも生前の小山さんが葛西さんに「あなたの追悼録は私が責任をもって引受けます」と固く約束されていたとかで、「それが逆さまになってしまって」と慨嘆久しうしておられた。

かくて、47年10月16日浅草東本願寺における七七忌法要後の懇談会の席上、参会者全員の賛同をえて追悼録の刊行が決定され、葛西さんがその責任者に選ばれたのである。12月6日葛西さん主宰のもとに準備委員による第1回の打合せ会が開かれ、刊行事業がスタートした。その後数次にわたり会合を重ねて、追悼録の基本構想や刊行事業の実行計画をねり、発起人の人選を進め、ようやく本年3月に入って発起人への承諾懇請、原稿執筆依頼などを行う運びにまでこぎつけた次第である。以下この刊行事業について主要な事項を書きとどめることとしたい。

まず刊行事業の組織であるが、この事業の趣旨に賛同して発起人となった者で「小山進次郎氏追悼録刊行会」を結成することとし、会の運営は発起人のなかから選ばれた発起人幹事が当ることとなった。

発起人幹事には左記の22名が選任された。

石井清二 伊部英男 潮 洸 大和田 潔 尾崎重毅 葛西嘉資

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、710頁)

熊崎正夫 坂元貞一郎 鈴木幸一 瀬戸新太郎 曽根田郁夫 高木 玄

太宰博邦 建守永治 舘林宣夫 戸澤政方 野尻元男 畠中順一

堀岡古次 宮嶋 剛 山崎 圭 山本正淑(五十音順・敬称略)

ただし、忙しい仕事をもつ発起人幹事全員にそう何度もお集り願うわけにも参らないので、実際の運用としては、発起人幹事会で決定された刊行事業の大綱を実施に移すため、畠中順一、鈴木幸一、大和田潔、山崎圭、桒原益男、江原繁、高木玄の7名が必要に応じ随時会合して実際の処理に当った。

題字の執筆は、衆議院議員灘尾弘吉先生にお願いした。小山さんは、昭和13年4月、見習として厚生省に入省、社会局保護課で役人生活の第一歩を踏出したが、その時の保護課長が灘尾先生であった。つまり、小山さんが役人になって最初にお仕えした課長という深い関係にある先生から立派な題字がいただけたことは、まことにありがたいことであった。心から厚くお礼申上げる次第である。

小山さんには、生活保護法の解釈と運用(昭和25年)、社会保障関係法(昭和28年)、国民年金法の解説(昭和34年)などの著書のほか、社会保障関係の専門誌などに寄稿されたおびただしい数の諭文・随筆類がある。これらの遺稿をどう取捨選択して限られたページ数の枠内に収めるか、この難題にとり組んでくれたのがた和田潔君である。同君は、山崎圭君を相談相手に、三井速雄君を補助者にして、全遺稿を分類してしてリストアップすることから始めて、内容をすべて通

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、711頁)

読した上で収録すべき遺稿を選びだして提示してくれた。

これは大変に気骨の折れる作業であり、その御労苦は感謝に堪えない。しかし、あれも載せたい、これも収めたいという希望や意見が続出し、収載量は当初予定をだいぶ上回る結果となった。でき上がった追悼録全体の3分の2が論文などの遺稿であり、これに重点がおかれた形となったが、これも理論家だった小山さんの追悼録にふさわしいともいえるのではないかと思う。なお、年譜の作成も大和田、三井両君を煩わしたことを付記する。

写真はできるだけ多数収載する方針で、畠中順一さんが中心になって選定した。生涯の各時代のものをかたよりなく網羅するよう心がけた。そのため、心当りの向きに写真の提供をお願いしたり、また、小山家のアルバムに説明書きがなかったため、写真の人物や時代の確認に編集関係者が苦心したようにきいている。

80人もの方々から小山さんの思い出に関する玉稿を頂戴することができた。御多忙のなかを快く執筆を引受け、しかも短期間内にお届けいただき、ただただ感謝のほかない。ここで、お断りしておかなけれぽならないのは、原稿の表題のことである。「小山さんの思い出」「小山さんを偲ぶ」という表題が多かったので、内容との関係で適宜表題をつけさせていただいた。なるべく小山さんのお人柄を浮彫りするような表題をつけるよう十分に配意したつもりなので、どうか御了承を賜わりたい。なお、原稿は、各時代別に分けて姓の五十音順に配列した。

刊行事業の経費は主として発起人の拠金で賄うこととし、この方針をどうにか貫くことができ

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、712頁)

た。発起人各位にあらためて厚くお礼申上げたい。経理は、厚生年金基金連合会の潮洸さんが責任者となり、事務は古郡重治君に担当していただいた。

追悼録の編集に関する実務の万般は、あげて江原繁さんに引受けていただいた。江原さんは、朝日新聞記者として厚生記者会在籍のころ、小山さんと相識り、人間小山に深く傾倒された方である。編集や刊行に絡む煩瑣な雑務の処理など地味な裏方の役割を気持よく担当して下さった江原さんの献身的な御労苦を特記して、心から感謝の意を表したいと思う。

印刷、製本その他出版のことは、小山さん生前の恩誼に報いるため、たとえ赤字を出してもよいからぜひやらせて欲しいと申出た社会保険広報社の高麗義久さんに万事お願いした。なお、本書の校閲は、すべて朝日校閲センターに依頼した。

追悼録を一周忌までに遺族に贈呈するという当初の予定どおり刊行事業を完了することができた。これひとえに発起人各位や原稿を寄せられた方々などこの刊行事業関係者の御熱意と御協力のたまものであり、最後に重ねて心から感謝申上げる次第である。

この追悼録を謹んで小山進次郎さんの御霊前に捧げます。

(高木 玄)

出典

小山進次郎追悼録刊行会『小山進次郎さん』(社会保険広報会、1973年9月5日、713頁)

小山進次郎さん

発行 昭和48年9月5日

発行者 小山進次郎氏追悼録刊行会

発起人幹事代表 葛酉嘉資

厚生年金基金連合会内

東京都千代田区内幸町2丁目1番6号日比谷会館内

印刷者 株式会社 社会保険広報社

東京都新宿区本塩町七番地
[ 2017/10/14 20:51 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

落ち葉

雲11 

昨夕の撮影散歩で美しい落ち葉を見つけ帽子と頭の間に保管して持ち帰りお皿の水の中で一晩保存し今朝マクロレンズで撮影した。

水に浸しておかないと落ち葉は乾燥し見る影もなくなって(以前の面影がすっかり変わって、見るに堪えないさまである、みすぼらしい)しまう。

綺麗だなと思って本に挟んでおいても落ち葉は乾燥し見る影もなくなってしまう。

まあ、一晩が限界で、今朝だって、浸しておいた水に落ち葉の色素が、染み出していた。

それにしても、落ち葉は、美しい。

美しいと思っているのは私であって落ち葉は自らを美しく紅葉させたわけではない。

落ち葉は、たいてい虫食いだったりし、それはそれで風情があり面白い。

今回の落ち葉は、バクテリアの被害さえ被らず、全ての部分が、独特に紅葉し、見飽きない。

濃い茶色淡い茶色そして黒い斑点、落ち葉は、意図せず,紅葉し、私に、偶然拾われ、撮影され、庭に捨てられた。

庭に捨てられた落ち葉は、乾燥し、雨に濡れ、萎(しぼ)み、バクテリアに食べられ、庭に栄養を与える。

いつも撮影散歩途上で休憩するこの町随一の景勝地は、いつも、静かに温かく私を迎えてくれる至福の場所だ。

辺りを埋め尽くす樹木は、確実に、紅葉し初めているが、人工的に植えられた樹木に多様性は無く、紅葉の撮影場所は、別途探さなければならない。

10月13日(金)に年金が支給されるから、CANONEOS3を購入したく思っている。

考えてみれば、OLYMPUSMicroFourThirdsに拘った判断が間違っていた。

CANONボディーはTAMRONマクロレンズその他安価な交換レンズを使わせてくれる。

OLYMPUSMicroFourThirdsボディーとレンズは売り払おうと思っている。

2017年10月11日(水)午前11時2分・文責・藤井深

最終更新:2017年10月11日(水)午前11時58分・文責・藤井深
[ 2017/10/11 13:26 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

さとうきび畑

落葉 

寺島尚彦(てらしま・なおひこ)作詞作曲のこの歌は、沖縄戦を主題に取り上げた、彼の代表作である。

沖縄戦の悲惨さは、単に、この狭い島で、米日両国の若者達が殺し合っただけではなく、日本軍による沖縄県民の軍令による斬首(ざんしゅ)や、同じく日本軍による南部に避難して来た沖縄県民に対する差別的扱いをも含んでいた。

Wikipedia沖縄戦を読んで不思議だった事は、なぜ沖縄だったのか、という簡単な問題意識が存在しなかった事である。

戦争に不可欠な物資たる、鉄・石油・火薬原料その他を、決定的に欠いた日本が、戦争を続行出来たのは、英国及び米国の「死の商人」が、それらを「売った」からである。

両国の死の商人の指示を受けて、両国政府は、日本が、侵略戦争を遂行する事を、「悪魔の微笑み」で見守っていた。

当時、米国の支配圏が何処まで及んでいたかは知らないが、英国は、東インド会社という広大な支配圏を、米国に先駆けて確立していた事は、竹田いさみ「世界史を作った海賊」が証明している。

英国が資本主義を確立し、米国がそれを引き継ぎ、覇権を確立した。

私は、日本の侵略戦争は、両国政府の「掌の中(たなごころのなか・物が掌の中にあるように、思いのままになることのたとえ)」で遂行されたと大胆に推測している。

日本軍に侵略戦争を止めさせる事はいとも(まったく、はなはだ)簡単な、赤子の手をひねるが如き事であった。

裕仁一人を殺せば事足りた。

ヒトラー暗殺計画は何度も試みられ失敗したが、裕仁暗殺計画が何度も試みられたと聞いた覚えは無い。

宮内庁編纂の昭和天皇実録は、聖断過程を詳細に記述し、裕仁一人を助ける事を唯一の条件にして、裕仁は、ポツダム宣言受諾に応じた。宮内庁自身が、無条件降伏説を覆した。

裕仁一人を殺せば侵略戦争は即刻終了していた。

英米両国は、簡単に出来る裕仁暗殺を遂行せず、侵略戦争を長期化させる戦術を採った。

目的は、死の商人と彼らを支える産業に富を齎す事にあった。

戦争は、公共事業であり、貧しい米国の若者に仕事を与えた。

血生臭い人殺しが経済を発展させた。

日本は別として、欧米諸国では、武器の生産販売が合法的に行われている。

武器とは、すなわち、人殺しの道具である。

日本人には考えられない残虐な世界が、いまだに、欧米諸国には存在する。

沖縄戦は、米国の、第二次世界大戦終了後を見据えた、周到な「王手」であった。

私は、大胆に、そう推測している。

2017年10月11日(水)午前0時14分・文責・藤井深

2017年10月11日(水)午前1時44分・文責・藤井深
[ 2017/10/11 10:54 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)